ルカの福音書17章1~10節
今日の聖書箇所から「からし種ほどの信仰」という題で説教を致します。
からし種とは小さいという意味があります。
その小さい信仰があれば大きなことができる、
神の栄光を現すことができると今まで教えられてきましたが、
しかし、この前後の主イエスの言葉を通して
違う思いももつことができます。
そのことを今日は共に学んでいきたいと願います。
Ⅰ、主イエスの愛の深さ(3,4節)
主イエスは「悔い改めるなら、赦しなさい。」(3)
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、
七回あなたのところに来て「悔い改めます。」
と言うなら、赦しなさい。」(4)と言われました。
悔い改めの重要性、必要性も主イエスは伝えてはいますが、
赦すということ、そんなことが可能であるのか、
一日に一回でも赦せない、
いや一年に一回でも赦せないというのが
人間の本質ではないでしょうか。
信仰をもつキリスト者になれば、そうなるというのではなく、
自分の思いでは赦せない、神の愛の深さを通して変えられる、
変えられた人ができることです。
聖霊の御業であると思うのです。
聖霊によるのでなければ、だれも「主イエスは主です。」と
言うことはできません。(Ⅰコリント12・3)
Ⅱ、なすべきことをしただけ(10節)
7~10節には主人としもべの関係が記されています。
現代では差別的言葉にとられやすい箇所ですが、
このしもべは主人に対して従順であるわけですが、
良き行為をしたとしても、
それは主イエスによって変えられ、
全き信頼をもつ人に変えられたということです。
ですから、しもべは「取るに足りないしもべ」と言い、
「なすべきことをしただけです。」と言うことが
できるのです。
またそのような主イエスを信頼する信仰をもつことが
できたのは奇跡であり、神の憐みでしかないということです。
「主よ、憐み給え」という祈りの中に
キリスト者の生き方があるのです。
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