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◆1月26日(日)「からし種ほどの信仰」

執筆者の写真: faithfaith

更新日:2月17日

ルカの福音書17章1~10節


今日の聖書箇所から「からし種ほどの信仰」という題で説教を致します。

からし種とは小さいという意味があります。

その小さい信仰があれば大きなことができる、

神の栄光を現すことができると今まで教えられてきましたが、

しかし、この前後の主イエスの言葉を通して

違う思いももつことができます。

そのことを今日は共に学んでいきたいと願います。


Ⅰ、主イエスの愛の深さ(3,4節)

主イエスは「悔い改めるなら、赦しなさい。」(3)

「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、

七回あなたのところに来て「悔い改めます。」

と言うなら、赦しなさい。」(4)と言われました。


悔い改めの重要性、必要性も主イエスは伝えてはいますが、

赦すということ、そんなことが可能であるのか、

一日に一回でも赦せない、

いや一年に一回でも赦せないというのが

人間の本質ではないでしょうか。


信仰をもつキリスト者になれば、そうなるというのではなく、

自分の思いでは赦せない、神の愛の深さを通して変えられる、

変えられた人ができることです。

聖霊の御業であると思うのです。

聖霊によるのでなければ、だれも「主イエスは主です。」と

言うことはできません。(Ⅰコリント12・3)


Ⅱ、なすべきことをしただけ(10節)

7~10節には主人としもべの関係が記されています。

現代では差別的言葉にとられやすい箇所ですが、

このしもべは主人に対して従順であるわけですが、

良き行為をしたとしても、

それは主イエスによって変えられ、

全き信頼をもつ人に変えられたということです。


ですから、しもべは「取るに足りないしもべ」と言い、

「なすべきことをしただけです。」と言うことが

できるのです。

またそのような主イエスを信頼する信仰をもつことが

できたのは奇跡であり、神の憐みでしかないということです。


「主よ、憐み給え」という祈りの中に

キリスト者の生き方があるのです。

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