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2月12日(日) さばくな、赦せ、与えよ

ルカの福音書6章37,38節


今日も平地の説教(平野の説教)です。


あわれみ深い者になれたらと常に思います。なりたいけれどもなれない私たちに

主なるイエス・キリストが語られたと思うと苦しい気持ちになります。

けれども本当に私たちをあわれみ、愛してくださるゆえにこれを良い知らせとして伝えて

いるのです。


Ⅰ、さばいてはいけません。(37節)

このことは人はみな苦手です。しかし、さばき主なるお方が、私たちにあわれみを与えられたのです。そのことを思い、さばかない歩みをいたしましょう。

さばくことのできるお方は、私たち人間ではなく、神のみであることを知っているのですから。


Ⅱ、赦しなさい。(37節)

私たちは人のことはよく見えても自分のことは見えないのです。また見ないことにしているのです。

ゆるすことも簡単ではありませんが、イエス・キリストは「赦しなさい。そうすれば、

あなたがたも赦されます。」と言われます。その言葉は、私たちが他の人を赦せないとするなら、私たち自身も神の赦しを受けることができないという意味でもあります。

また主が教えてくださった祈りの「主の祈り」にも「我らに罪をおかす者を我らがゆるす

ごとく我らの罪をもゆるしたまえ。」とあります。

礼拝のなかで、その祈りによって、私たちはみな赦されている者であることを

改めて自覚させられるのです。


Ⅲ、与えなさい。(38節)

使徒の働きに「受けるよりも与えるほうが幸いである。」とあります。(使徒20・35)この言葉は主の言葉です。福音書にはありませんが、パウロが伝えた主の言葉です。

人は受けることを求めますが、主なるイエス・キリストは与える人になることを願うの

です。

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