ルカの福音書6章39~49節
イエスの平野の説教はさらに続きます。ここでの聖書の箇所の主題は、
「見せかけのない信仰」です。信仰は見せかけだと、
Ⅰ、自分の目の中の梁に気がつけない。(41節)
「自分の目の中の梁」に気がつけないのです。「主よ、主よ」と呼んでいても、(46)
主の言葉を聞いていても、悲しいかな、それを行うことができないのです。
しかし、兄弟の目のちりは気になり、見えるのです。不思議です。
それは「兄弟」と呼ぶように、キリストのからだなる教会の中でも起こり得ることです。
Ⅱ、「偽善者よ」とイエスは言われる。(42節)
イエスは、そのような信仰は見せかけで「偽善者」と呼び、そして言われます。
「自分の目から梁を取り除きなさい。」と。これもイエスの命令です。
そのことは何を意味しているのでしょうか。罪を悔い改めて、新しい生き方を始めること
です。悔い改めてとは方向転換です。口先だけや、うわべで行うことではなくて、
生き方そのものの転換が必要です。
Ⅲ、土台がない。(48節)
土台なしに家を建てるような生き方をしていたと気がつくならば、「地面を深く掘り下げて、岩の上に土台を据えて」(48)とあるように、このような岩の上に土台を置く生き方をしましょう。
シモンはイエスより「岩(ペテロ)」という名をいただきます。それはシモンが、イエスを主と告白したからです。見せかけの信仰、口先だけの信仰ではなく、主の言葉を信じ、
行う者へと変えられたからです。
生き方の転換を今日から始めましょう。イエスは、イエスを愛する者にそのことを願われたのです。最後に、48節のたとえのごとく、困難の洪水が来たとしても、私たちが耐えることができたら、真のイエスの弟子であるということです。
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