top of page

◆2月26日(日) 「生き方の転換」

執筆者の写真: faithfaith

更新日:2024年4月11日

ルカの福音書6章39~49節


イエスの平野の説教はさらに続きます。ここでの聖書の箇所の主題は、

「見せかけのない信仰」です。信仰は見せかけだと、


Ⅰ、自分の目の中の梁に気がつけない。(41節) 

「自分の目の中の梁」に気がつけないのです。「主よ、主よ」と呼んでいても、(46)

主の言葉を聞いていても、悲しいかな、それを行うことができないのです。

しかし、兄弟の目のちりは気になり、見えるのです。不思議です。

それは「兄弟」と呼ぶように、キリストのからだなる教会の中でも起こり得ることです。


Ⅱ、「偽善者よ」とイエスは言われる。(42節)

イエスは、そのような信仰は見せかけで「偽善者」と呼び、そして言われます。

「自分の目から梁を取り除きなさい。」と。これもイエスの命令です。

そのことは何を意味しているのでしょうか。罪を悔い改めて、新しい生き方を始めること

です。悔い改めてとは方向転換です。口先だけや、うわべで行うことではなくて、

生き方そのものの転換が必要です。


Ⅲ、土台がない。(48節)

土台なしに家を建てるような生き方をしていたと気がつくならば、「地面を深く掘り下げて、岩の上に土台を据えて」(48)とあるように、このような岩の上に土台を置く生き方をしましょう。

シモンはイエスより「岩(ペテロ)」という名をいただきます。それはシモンが、イエスを主と告白したからです。見せかけの信仰、口先だけの信仰ではなく、主の言葉を信じ、

行う者へと変えられたからです。

生き方の転換を今日から始めましょう。イエスは、イエスを愛する者にそのことを願われたのです。最後に、48節のたとえのごとく、困難の洪水が来たとしても、私たちが耐えることができたら、真のイエスの弟子であるということです。

最新記事

すべて表示

◆3月2日(日)「義と認められて帰る」

ルカの福音書18章9~14節 主イエスは、このたとえ話を、 自分は正しいと確信していて、 ほかの人々を見下している人たちに語り、 パリサイ人と取税人の祈りを比べたのです。 Ⅰ、パリサイ人の祈り (11,12節) 当時祈りは立って祈ることでした。...

◆2月23日(日)「主イエスの心配事」

ルカの福音書18章6~8節 ルカの福音書18章が、 主イエスが弟子たちに語られたことだと思うとき、 8節の御言葉にはどきっとさせられるのです。 主イエスの弟子たちには信仰をもっていると思われますが、 Ⅰ、再臨は主イエスの約束 人の子が来るときというのは最初の初臨ではなく、...

◆2月16日(日)「失望してはいけない」

ルカの福音書18章1~8節 Ⅰ、現在の社会の縮図 この一人のやもめと同様に私たちにとって、 このような苦難を受けて生きることは、 単にこの社会に不正がはびこっているということで 済まされることではなく、 強い立場の者が弱い立場の者をないがしろにする...

Comments


Youtube礼拝動画はこちら▶

  • Black Facebook Icon
  • Black Pinterest Icon
  • Black YouTube Icon
  • Black Instagram Icon
bottom of page