ルカの福音書11章45節〜54節
先週はパリサイ人に「わざわいだ」と主イエスは言いましたが、
ここでは律法の専門家たちにも「わざわいだ」と言います。
(11・42,43)
なぜわざわい、不幸なのか。
両者に共通していることは、自分の欲を満たすことを最優先し、
「人々には負いきれない荷物を負わせる」からだと、
主イエスは言います。
私たちもこの主イエスの言葉を聞きましょう。
Ⅰ、自分をごまかし、正当化しない。
主イエスのこの声に耳を傾け、
他の人々が苦しみの中にいるのを見て見ぬふりをしてはいけないし、
愛の行動をしなくても別に罪ではないと思い過ごすことがないように。
マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。」
と言われたが、律法には「あなたの隣人を愛し」(マタイ5・43)
とあります。
そのことを忘れてはいけないのです。
Ⅱ、主イエスの命令を聞く。
主イエスは、律法の専門家たちにこのようなことも命令しています。
「この時代はその責任を問われる。」(51)
その責任は人々に負わせている荷物(つまり重荷)を
自らが負うということです。
人は弱い存在で、最初の人アダム以来、罪を転嫁するものです。(創3・12)
しかし、私たちキリスト者は主イエスの言葉と行いをいつも基準に
しなければならないのです。
あの十字架も無理矢理背負わされたのではなく、
主イエスは自らの意志で背負われたのです。
「イエスは自分で十字架を負って、どくろの場所と呼ばれるところに
出て行かれた。」(ヨハネ19・17)
主イエスが十字架を負うことで、私たちの罪が赦され、
神の子としての幸いがあるのです。
ですから、十字架は
いつまでも私たちに責任を問い続けることになるのです。
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